「日本を拡張」して、どうしようというのだ?


今回はちょいと真面目である。


日本人が個人としてもっと海外に展開するようになり、今の日本を「拡張」することによって、かつてとは違った形での「日本」の繁栄はありうるのではないか。それが自分の思いである。


個人が海外に出ることを「移住」ではなく「展開」と呼び、そして「日本を『拡張』」、さらには「『日本』の繁栄」などといった表現をしているが、大東亜共栄圏でも作る気か。政治的意図を持って上げたエントリではないと思われるにも拘らず、いやそれだからこそ尚更、このような言い回しがごく自然に出てくるところに、なんともいえない不気味さを感じないわけにはいかない。


日本を出て海外に移住するということは、必ずしも日本を見限って捨ててしまうことにはならない。国内外を含めた日本人がネットで緩やかにつながることによって、そこに拡張された形での「日本」ができるのではないか。一定数の日本人は国外でリアルを生きることで、世界と「地続き」の日本がそこに生まれるだろう。


ここでも似たような表現が見受けられるが、やはり何の屈託もなしに使用されている。「日本を出て海外に移住するということは」現地に溶け込み、(帰化する訳ではないにしても)その国の一員として働いたり生活することではないのか。何故「拡張された形での『日本』」などというものを作らねばならないのだ? 何故「世界と『地続き』の日本」なんてものが「そこに生まれ」なければならないのだ? それらは一体どのようなものなのか、具体的に説明して欲しい。オレにはさっぱり分からない。


今後は大企業の力でではなく、個人の力で移住する人がもっと出てきて、日本を「拡張」してほしい。


「時代における一定の役割を終えた」今、「大企業の駐在の人は少なくなっている」ので、今度は個人がその役割を担うべきだという。まるで帝国主義者のように「日本を『拡張』してほしい」という。かつて高度成長期における企業の海外進出は「経済侵略」と揶揄されたそうであるが、言うまでもなくこれは戦前に日本が主としてアジアで行った行為を念頭においた物言いだ。渡辺は単に「海外で勉強してそのまま海外で働く道を真剣に考えてみて欲しい」と言ってみただけなのに、これを咀嚼しようとすると、いとも簡単にこのようなフレーズが(恐らくは無意識のうちに)飛び出してしまうことに驚愕した。


書き手のプロフィールには「Researcher@SiliconValley」と記されているので、既に日本を出た人による意見であることが分かる。根拠はないが、この人は別に八紘一宇の理想を掲げてシリコンバレーに移住したのではないだろう。自宅の神棚に天皇の写真が飾ってあるわけでもないと思う。自らの適正と能力を生かすことを目的に渡米したのだと想像する。それなのに、ちょいと自国の将来像に思いをはせた途端にこの有様である。これが歴史というものか。やはり、我々は何か根っこのところで過去と繋がっており、何かの折にはすぐさまそれが噴出するのだと思い知らされた。それは冒頭における次の一文からも十二分にうかがう事が出来る。


渡辺千賀さんの「日本はもう立ち直れないと思う」という発言がずいぶん反響を呼んだわけだが、*1これは日本という現行システムの限界を指摘しているのであり、中の人までが駄目だとまではいっていないと思う。


このような物言いというか説得の仕方は明らかに、ある種のパターンを踏襲している。例えば「中の人」を「臣民」に、「現行システム」を「政党政治」に置き換えてみれば、たちまち軍部のアジテーションのように聞こえてくることが分かるだろう。腐敗した政治家こそがその限界を露呈しているのであり、神国日本の民までが駄目なわけではないので云々、といった具合である。


渡辺千賀さんがどうお考えかなのかはわからないが、少なくとも自分の思いは、「こっちにきたほうが幸せな人が他にもっといるはず。そしてそれが日本人の総体的幸せにもつながるんじゃないか。」というものである。


ここにも奇妙な矛盾が感じられる。「こっちにきたほうが幸せな人」が個別に幸せになるのは分かるにしても、それは「日本人の総体的幸せ」とは無関係であろう。「個人の力で移住する人」が勝手に幸せになれば済む筈の話が、なぜ全体論に結びつくのであろうか。


今回の一連の議論の本質は、不況による閉塞感が人々の頭の上に覆っていたところへ、日本の外に居る奴から「こっちに来てみなよ」とお声がかかったので、皆ぐらっときた程度のことであり、ぶっちゃけ、何かの弾みで来月にでも景気が急反転したりでもしたら、たちまち忘れ去られてしまう類のものである。実際には、これを現実味のある選択肢として考えられる人間など、ほんの僅かであるし、また好況が訪れた後でも海外に行くやつは勝手に行くに決まっている。それ自体は別に構わないのだが、天下国家を論じようとすると、いきなり先祖がえりのように昔のフレーズが連続して用いられてしまうところが実にキモチワルイ。


もしも、このような感想は的外れであり、むしろオレの為す連想の方にこそ問題があるのだというならば、上記に取り上げたフレーズひとつひとつについて、具体的にどのようなことなのか説明していただきたい。渡辺や海部の意図するところを「個人としてどうするか考えよう」「ということだと思」っているにしては、あまりにも不自然だと(オレには)思える。この気味悪さを、単に「考えすぎだ」と一蹴するのは能天気過ぎるというものであろう。